多様性というはてしない違和感

多様という言葉は、わかりづらい。

「多様なニーズ」などという言葉は、
実は多様でも何でもなくて、
ただ供給側が消費者の欲望を刺激するために
作り出した虚構であると思う。

ほんとうは、消費者のニーズは多様化などしていない。
ただ過剰な商品が過剰な欲望を喚起しているだけであり、
消費の選択肢が膨らんでいるように見えるだけである。
つまり個人の欲望が限りなく細分化されているだけである。

『経済成長という病』平川克美

選択肢が広がることが、可能性を広げ、
自由につながるという見せ方がある。

が、たいていの場合は、供給者側の都合。

広告もメディアもそういう現実が多くまなべる。

まず、斜めの(裏側の)見方をすること。

・・・

でも、それ以上にたいせつなこと。

それは多様性、というのは「ひとくくにできないもの」
を言うのではないか、ということ。

弁護士になって難事件を解決する人と
無酸素でエベレストに登る人のすごさの価値はあい入れない。

これをひとつのくくりにすることは難しい。
(逆にいえばそれをくくるのが編集)

多様というのは相いれないもの同士
と思う方が、歴史から多くまなべる。

・・・

だからこそ、ひとくくにできないものを
理解につとめる。互いの関係を考え続ける。

多様性とは、自分の理解を越えた異質なものへの
はてしない違和感や問いだとおもう。

・・・
パソコンの前で仕事をしながら、
サハラ砂漠のガイドを仕事にしていたムハンマドをおもう。


多様より、違和や異質。