ひとつの記録、複数の記憶

知人のブログで父親の死について書かれていた。

葛藤や後悔、偲ぶ気持ちの痕跡が文字にのこる。

・・・

文化というものには「記録の文化」と「記憶の文化」というものがある。
記録の文化は文書となり絵巻となり建築となってしっかりと歴史の一時期を告げている。

解読可能な文化である。しかし記憶の文化というものは語り継がれ、
身ぶりとして継承されてきたものが多いだけに、漠然としているし、
一つの記憶だけですべてを再生することはできない。

松岡正剛 千夜千冊(『忘れられた日本人』宮本常一
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0239.html

ときに痛烈な体験と心情の吐露を綴ったテキストは
「記憶の文化」ではないか、とおもう。

「一つの記憶だけですべてを再生することはできない。」ならば、
複数の記憶で再生されるような「ひとつの事実」があるように。

個であり、全体であるような
ゆるやかなかかわりを結ぶなにか、があるとおもう。

昔はそれを文化や民俗と呼び、
今はそれをカルチャーや流行と言う。

・・・

無字(無文字)社会で口伝、口述されてきたものから
時代の全体像を編む。

twitterのつぶやきにも
ときに他人事ではないリアルなものがある。

記録と記憶は別のもの。

けれど、両者をつなぐみえない記憶こそ
記録を試みるにふさわしい。


書いていない、書かれていないものやことを書く