名編集者のおもいと世代間ギャップ:少数派の居場所

表現のエネルギーの多くは
負の経験から生まれる。

編集者の見城徹さんは語る。

すべての表現は自分で自覚していても、
いなくても、異端者の哀しみから発していると僕は思っている。


では、異端者とはなにか?


はっきりしているのは、共同体の概念で言えば「少数派」であるということだ。
共同体を構成し、維持する大多数から滑り落ちる「少数派」。

その少数派がマスに流通するビジネスを成立させるには、どうすればよいのか?
それは可能なのか?

編集者生活30数年、僕はその一点にこだわり続けたような気がする。

異端者の哀しみは、一皮めくれば異端者の恍惚に変貌する。
人知れぬ異端者のエクスタシー。僕はそれに迫ってみたい。


『異端者の快楽』(見城徹

「そのようにして、僕は仕事と格闘してきた」という。

本書の中で、今の人は
「心の飢えみたいなものがあまりなくなってきているのではないか」
とコメントしている。
(別の箇所では「欲望が足りないのではないでしょうか」とも)
・・・
「草食系男子」と言われるぼくらの世代は、物欲が減り、
仕事のやりがいだけではなく、生き方のバランスを考える。

欲望を刺激した消費や、一つのモノサシでの競争に冷めている。

地味でも、日々をまじめに生きることに主眼を置く。

あたまりまえのことを
あたまりまえに続ける。

じぶんが「少数派」であることを
自覚した人だけが、ウェブや新しいコミュニティという
「小さなマス」をつくり、動いている。

・・・

あまりメディアでは取り上げられないけれど、
これからはこの「小さなマス」の時代になる。

「小さなマス」はmixiやモバゲーだけではなく、
バーや居酒屋、公園やお寺にもある。

オフ会をはじめとしたリアルな場所に行くと
あたらしい発見がある。

・・・

時代やメディアの形が変わっても
人の感情は相対的には変わらない。

モノでなくなった欲望は、
ちがうものにかたちを変えている。

今、すこし見えづらくなった「飢え」に
目を向けてみる。

・・・

異端者の哀しみは、
街にもウェブにも現れている。

異端者の快楽


少数派(「小さなマス」)に目を向け、声をきく。


【後記】
休日は走っています。今日は8Kmほど。
コツは距離ではなく、時間で走ること。
(とフルマラソンランナーの和尚さんに教えてもらう)