言葉には身体がある(2)「なんとなく」が大事
読んでいて、新しい気づきがある場合、
文章を読んですぐにわかることよりも、
「なんだかわからないけれど大事そうだ」
とおもったことの方が、腑に落ちる。
文章の意味でとるよりも、
理解の深さを行間で感じとる。
行間は文体である。
昨日の谷川俊太郎の言葉を借りれば
「肌ざわり」である。
村上春樹は行間や文体、肌ざわりについて
こう定義する。
「極端なことを言ってしまえば、
小説にとって意味性というのは、
多くの人が考えているほど、そんなに
重要なものじゃないんじゃないかな。
というか、より大事なのは、意味性と意味性が
どのように有機的に呼応し合うかだと思うんです。
それはたとえば音楽でいう「倍音」みたいなもので、
その倍音は人間の耳には聞きとれないんだけど、
何倍音までそこに込められているかということは、
音楽の深さにとってものすごく大事なことなんです。
[・・・]
温泉のお湯につかっていると身体が温まりやすいのと同じで、
倍音の込められている音というのは、身体に長く深く残るんですよ、フィジカルに。でも、それがなぜ残るかというのをことばでもって説明するのは、
ほとんど不可能に近いんです。」
同じ温度のお湯でも家のお風呂と温泉のお湯がちがうように、
同じことを言っている文章でも深さのちがいがある。
その差はフィジカルな(身体的な)もの。
有機的に呼応しあう意味性をつくるためになにが必要か。
考え続けて5年。正直、まだ僕もよくわかりません。
(こう言えるのが本とちがってブログのいいところ)
だけど、冒頭にあげた「なんとなく大事」
だとおもう、おもい続けていることは、
忘れないようにメモをしたり、再度ブログに書いている。
(この引用も3回目くらい)
この謎は、村上春樹は「ほぼ説明不可能」と言っているけれど、
挑戦したい「読むこと、書くことの謎」のひとつ。
謎と問いと仮説をもって読み、書いていくことも
ひとつの愉しみ。
▼
「なんとなく大事」をストックしておく。
【後記】
風邪がはやっているようです。
うがい、手洗い、睡眠、食事に
気をつけようとおもいます。