断片と世界とブログ:見取り図をつくる

メモは、断片だ。

日々の記憶を書きとめることに
何の意味があるのだろう?

と思いながらも書き続けてきた。

意味はなくても続けることがはできる。

ただし、方向性を意識するのとそうでないのは、
時間を経たときに大きく変わる。

ぼくはこの方向性を2003年に作家の
池澤夏樹さんの特別講義で学んだ。

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かつては文学が世界の全体像を描く、共有するツールだった。
文学が想像の共同体をつくった。今は、それがない。

池澤夏樹は今の時代と世界をこう語る。

それでも、散らばった破片のうちのいくつかを集めて、
自分なりの仮の世界像を作らないわけにはいかない。

つまり生きていくということは、単に消費するだけではなくて、
何らかの積極性を持って社会ないし世界に向かうことですから、
そのためには何か見取り図が要る。

しかし、かつてその見取り図を提供してくれた権威はもうない。
大きな物語はもうない。自分それぞれに小さく集めて、繕って、
まとめて、それでやっていくしかない。そういう判断が
今のこの破片ばかりの羅列的な世界観の背景にあるのです。P404

大きな物語ではなく、<自分なりの仮の世界像を作る>。

『フォーカス・リーディング』の寺田昌嗣さんはこれを
「サヴァイバル・マニュアル」と呼んだ。いいフレーズ。

書くことは、生きること(サヴァイヴすること)に通じている。

生きていくことの方向性を、全体と部分の認識、
世界と個人のかかわりでとらえる。

・・・

世界の全体像、見取り図に、かつては文学という物語があった。

その物語が細分化しつつある今、
書くとき、メモをするときに、
どこに向かおうとしているか。

・・・

日々を書き留める。

自分のなかでまとまりをつけて、
一つの見取り図をつくる試み。

メモから文学に、そしてブログへ。

当時、池澤夏樹さんは、世界文学とは
別のツールとして、ブログを提案していた。

この先見の明が、自分の将来を決めた。

個人が表現すること、
メディアをつくることを通じて、
学び、成長する機会をつくること。

・・・

書くことが、表現が目指す方向と全体像について、
ぼくが共感したことの一部を引用してみた。



全体像はない、という全体を知る。

まとめづらい、まとめられない、
そのそもまとまりなどないのではないか
ということもひとつのメモなのだ。

新潮選書 世界文学を読みほどく (新潮選書)


【編集後記】
冷え込んできました。
冷たいビールよりも、暖かいコーヒー。