「言葉のサイズと祝福」:つよい否定よりささやかな肯定

sotacafe2009-01-02

今年の個人的な方針のひとつに
「肯定的なことばと論理をもつ」がある。

主張や批評は、相手を否定することで「論理的」になる。
現状を批判することが、自説を正当化する。

一方で、何かを肯定すること、ほめることで
説得する論理もある。
・・・
橋本治内田樹』のまえがきで考えさせられた。

僕たちのいる世界をきびしく批評する人はたくさんいる。
「社会はこんなふうにあるべきではない」と言う人はたくさんいる。
けれども、僕たちの日々が「こんなふうにあることは、
もしかすると奇跡的なことかもしれない」というかたちで
「祝福」を贈ってくれる書き手はほんとうに少ない。


[・・・]
「祝福」というのは、ちょっとわかりにくい言葉だけれど、
そのいちばん素朴な形態は「国誉め」である。
「国誉め」というのは、小高い丘に立って四囲の風景を仔細に叙して、
「民のかまどはにぎわいにけり」と告げることである。
山の緑がどれほど深いか、谷川の清流がどれほど透明か、
鳥や虫の鳴き声がどれほど多彩か、
人々はどんなふうに日々のたずきの道を整えているか。
そういうことを淡々と記述することによって、
「このように世界があることは、わりと奇跡的なことなんだよ」と
教えてくれることである。


同じ意味で、「右に見える競馬場、左はビール工場」と歌ったユーミンも、
江ノ島が見えてきた。俺の家も近い」と歌った桑田佳祐も、
長崎は今日も雨だった」と歌った前川清も、「国誉め」の伝統をただしくふまえている。
それらの歌曲が「国民歌謡」として久しく歌い継がれているのは、
それが「祝福」の本義にかなっているからだ。

年末年始に小学校からの友人と大國魂神社にお参りし、
親戚が御殿場で稲から育てた餅米で餅をつき、
祖父母のいる山梨から冠雪富士を眺めると
「祝福」したくなる。
・・・

つよくておおきい表現ではなく、
よわくてちいさいけれど響く言葉を書き、残すこと。

「国民歌謡」にならなくても、
共有している時間や風景や季節は同じ。

ぼくらの身の丈で発することができる
言葉のサイズを確かめる年のはじめ。



祝う言葉と論理と表現をもつ。
橋本治と内田樹


【後記】
帰り道に通った新宿は
買い物客で賑わっていました。