ことばの好き・嫌いとからだの快・不快

人やものに好き嫌いがあるように、
言葉にも好き嫌いがある。

仕事とプライベートではつかう言葉を変える。

言葉のモード。

・・・

社会人になってビジネス語でやりとりを始めて、
自分の言葉が遠のく感覚を覚える。

日常で使うことばと切り離されて
ちがう誰かが語っているような感覚。

表面上は正しいことを言っていても、
なにひとつ「ハラ」に落ちていない。


理解はできても、納得ができない。

その時は自分の言葉を取り戻すために、
オフの時間で本を読み、ものを書いた。

温度を感じる言葉に飢えていた。


言葉の違和感から来る身体的な不快感。

仕事が合ってないと後で気づく。

違和感のある言葉に慣れる(無感覚になる)
前に気づいてよかったこと。
(その後はもう少し耐性がついた)

ことばはぼくたちの思考を制限するだけではなく、
身体の組成まで変えてしまう。

それくらいの力がことばにはあるんです。

だからこそ、自分の身体の唯一無二性を信じるなら
(実際にそうなんですから)、
「自分の身体が気持ちよく感じる自分のことば」を
探り当てることにもう少し知的リソースを集中しても
いいんじゃないかなと思います。

ことばが外部に与える「政治的効果」よりも、
ことばが「内面」に響かせる「未聞の体感」を
優先的に配慮する方がたいせつなことなんじゃないか。

僕はそんなふうに思っています。

『東京ファイティングキッズ・リターン
内田樹平川克美


では、どうすれば内面に響く、身体が快を感じる
言葉を見つけ出せるのだろうか。

ぼくはかつて世の中の出来事を「キレイダ」と
「キライダ」に分けて次々に綴っていったことがあった。
(略)
1000年も前のことであるが、清少納言
「キレイダ・キライダ」で言葉を鍛えた。

自分で選んだ言葉によって自分の価値観を
綴ってみること、あるいは書物のなかに
好き嫌いの言葉のマークをつけてみること、
試みてみるといいのではないか。

『千夜千冊』(松岡正剛


言葉を好き嫌いで分けてみる。


【編集後記】
gmailのアドレスが急に止まって、
あせりました。メールが生活の導線
ではなく、生命線になっていると気づきました。
だからこそリスク管理が必要ですね。