不能の経験、自己解体の読書

mixi日記のウチワとは
違う、別の空気を感じる。

たのしいだけではない
何かあたらしい感じ。

こちらはこちらで本のことを
中心に書き進めていきます。

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昨日のディスカッションメモで
> 17歳、不能の経験としての読書
にコメントがあった。

話題の引用元はこちら

□「人はドラえもんだけでは大人になれない」(内田樹

▽長いけど、ポイント引用

苦役に耐えるようにして読まなければならない書物
というものがある。

高校生や大学生の手持ちの知識や
感受性や理解力をもってしては、まったく歯が立たず、
それを読み通すためには、自分の考え方の枠組みの容量を
むりやり押し広げなければならないような、
ときにはおのれの幼い世界観が解体する痛みに
耐えねばならないような読書経験がある。

高校生がマルクスニーチェドストエフスキー
バタイユを読むというのは、そのようなある意味では
痛々しい経験である。

・・・(略)

すぐれた書物は私たちを
見知らぬ風景のなかに連れ出す。

その風景があまりに強烈なので、
私たちはもう自分の住み慣れた世界に
以前のようにしっくりなじむことができない。

そうやって、さらに見知らぬ世界に分け入るのだけれど、
必ず「あ、ここから先は行けない」という点にたどりつく。

そして、ふたたび「もとの世界」に戻ってきたとき、
私たちは見慣れたはずの世界がそれまでとは
別の光で輝いているのを知るのである。

若い人に必要なのは、
この終わりなき自己解体と自己再生であると私は思う。

愛したものを憎むようになり、
いちどは憎んだものを再び受け容れる、
というしかたで、私たちは少しずる成長してゆく。

そのためには幼いときから「異界」と「他者」に、
書物を介して出会うことが絶対に必要なのだ。

どれほどすぐれた物語であろうと、
ドラえもん』だけでひとは大人になることはできない。

みなさん文学を読みましょう。

引用元
http://www.tatsuru.com/columns/simple/10.html

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含蓄がある。

読書を痛みを伴う、苦役であったり、
「終わりなき自己解体と自己再生」
への通過儀礼とする。

時代が違うという話ではない。

若い内に(この場合は17歳)
この体験を経るかどうかは大きいと、
17歳から10年近く経つ、今おもう。

今のコミュニケーションにある
わかりやすさや伝わりやすさ、
シンプルで早いものから
いかに離れるか。

で、自分の「17歳と読書の関係」を
聴かれたので明日にでも書いてみよう。

・・・・
個人的な実感として
マルクスニーチェでなくても、
手塚治虫火の鳥」や大友克洋AKIRA」、
宮崎駿風の谷のナウシカ」も
十分、文学として機能すると思う。