勝利、究極、継続、完走

■勝利、究極、継続、完走

過去の思い出話。

中学で市の水泳大会の学校代表に選ばれる。
いい成績を残したくて通っていたスイミングクラブの
選手コースへ参加を希望する。

選手コースはその名の通り、選手養成。
上を見たらオリンピッククラスの選手を育てる。

週1回のクラブから週3,4回に増え、公式選手に混じり、
練習量の多さと厳しさを体験する。

結果として市の学校対抗では一位になり、
翌年の生徒手帳にも記録更新として残る。
(もう塗り替えられてるけど)

が、当のクラブコースでは落第生。

大会が終わったあとも転校するまで続けていたが
上には上があることを知る。

井の中の蛙」の意味を知るのもこの頃。
・・・
それから10数年。
プールに週2、3回は行く。
一人で気が向いたときにできる。

上を目指すことよりも、続けられることの方が
自分にとって財産になる。

サッカーやテニスはブランクがあるけれど、
泳ぐことは続いている。
・・・

競争や勝つことが同じルール、序列の中で
上を目指すことになっている。

ただ、はたして比べて上に立つことが
ゴールだろうか、とも思う。

あるレーサーは言った。

「本当の勝者はだれよりも早く走る人ではない。

 最後まで完走した人だ。」

そう言って事故で無くなったセナ。

一流は他と比較しない領域に行く。

極めるスポーツや武道、芸術は
他比べないところに自由度があり
それゆえの孤独がある。

勝ち負けレベルではない所で
だれに何を理解してもらい、
共感、共有するのだろうか。

ただ、その領域でしか人を打たないものがあるのだ。

小説に自分をシンクロさせてしまうように。
・・・

完走することの意味をわかってなお
早さや勝利を目指す人がいる。

自分はどこへ行くのか、行きたいか
ではなく行ってしまう場所がある。

「好むとこのまざるとにかかわらず」
ってやつですね。

そんなことを泳ぎながら思う。


■無趣味のすすめ

だいぶ前だが、創刊された時の雑誌「ゲーテ」にあった
村上龍のエッセイ「無趣味のすすめ」。

上のことに関連して、それでもなおという理由。

>>-------------------引用

現在まわりに溢れている「趣味」は、
必ずその人が属す共同体の内部にあり、
洗練されていて、極めて安全なものだ。

考え方や生き方をリアルに考え直し、
ときには変えてしまうというようなものではない。

だから趣味の世界には自分を脅かすものがない代わりに、
人生を揺るがすような出会いも発見もない。

心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。

真の達成感や充実感は、
多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、
常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。

つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。

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ふたたび、仕事について考える。

仕事と趣味が逆転してないだろうか、と問う。

趣味は必然的に仕事になり、
与えられた仕事は結果的に趣味になってしまう。
(ここでの趣味は村上龍の意味で同じ)

わずかながらも、その両方を体験してきた。

問われているのは生き方そのもの、
そんな気がしてしまう。