Twitter、「なう」のリアル

先週、京都に行ったとき
ふと思いついて携帯からTwitter
「東龍なう」とつぶやく。

東龍は京都の北白川にある有名なラーメン屋。

「なう」は「今、ここにいる」=nowという意味。

すると、5分もたたないうちに友人から電話がくる。

「おれの家、歩いて10分もかからないよ」

S「じゃあ、今から行っていい?」

「いいよ、むかえにいく」

夜の1時近く。3時ちかくまで久しぶりに語る。
・・・
Twitterは「今、この瞬間の1次情報」が共有できる。

ただ、時間と場所が一致しないといけない。

それは、今回のように大半がたまたま。

ただ、そのたまたまから広がるなにかを期待しながら
今の行動をつぶやいたり、考えを書く。

ここにおもしろさがある。

情報のむこうはリアルにつながっている。

声をかけてくれた友人は、
築年数不明の町家を借り、自力で改装した。

都心のリノベーションにはない
味のある家に住むこだわりをみる。

時間を経た町家の味わいと、
大きなディスプレイのMacのバランスが、いい。


いつもとちがう時間や場所で、つぶやいてみる

本を読む人の顔は美しい。

読書のコピーがすきだ。

「本を読めば、顔がよくなる。」

集英社 「夏の一冊」(1993)

解説。

なにより、本を読む人の顔は美しい。

たぶん、その人が所有する表情の中でも、
ナンバーワンと言ってもいいのではないだろうか。

『幸福を見つめるコピー』(岩崎俊一)

ある人と待ち合わせをしていたときのこと。

その人は、新宿駅南口のポストの横に立って
文庫本を開いていた。

その表情に、普段みえないなにかがあった。

しばらく、声をかけずに通り過ぎる人の
向こう側にたたずむその人をみていた。

・・・
本は、普段みえないその人の「別の顔」を
映しだす効果があるんじゃないか。

93年にこのコピーをみたころは、単純に
「本を読んだからかっこよくなる」と勘違いした。

その意味が、16年後にコピーを書いた人の解説でわかった。


読むときの「顔」をみてみる

思い出は場所にある

プチ同窓会に参加。

名古屋の小中学校時代の級友と16年ぶりに再会する。

ながい時間を経ても記憶にのこるのは、場所。
とくに一番は駄菓子屋とそのおばあちゃん。

そして皆、それぞれ部活をしていたので校庭での記憶。
名前は忘れても校庭ですごした時間は忘れないのかも。


記憶をたどる場所に行く

ここに示した考えは、私のものであり、私のものではありません。

話したり、書いていると
じぶんがいなくなることがある。

じぶんではなく別のだれかが
言っている、書いている感覚。

ある種のハイであり、ゾーン。

ここに示した考えは、私のものであり、私のものではありません。

私のものというのは、私がそれに従って行動したいと思っているからです。

私の魂の一部になっているようなものです。

私のものではないというのは、私だけが考えたものではないからです。

何冊もの本を読んだ後で形成されたのです。

私が自分の心の中で見ていたものがその本で支持されました。

『真の独立への道―ヒンド・スワラージ 』(MK ガーンディー)

書く、話すは、じぶんとはちがう別の場所に通じている。

だから探求しがいがある。


書いていることをわすれる

ありえたかもしれないじぶんを棄てる

10年前に読んだ本を読み返す。

当時のテーマは「じぶん」。

このテーマの本をみつけたきっかけは、
現代文の問題から。
(当時はよく現代文から本をみつけた)

そうありえたかもしれないじぶんを
つぎつぎと棄てていくことで、
はじめて<じぶん>になるということ、
それを精神科医ロナルド・D・レイン
「エクスタシーの放棄」と呼んだ。


つまり、わたしたちがつねに一定の「だれか」であるのは、
別のものになる=自分でなくなる(つまりエクスタシー)さまざまの
可能性を縮減して、社会のなかでイメージとして公認されている
ある人格のタイプに自分を合わせることによってだ、というのである。

『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一

ありえたかもしれないじぶんを棄てる。

「可能性の縮減」。

当時は、それではおもしろくないと思っていた。

けれど今はすこしわかる。

そうなるしかないじぶんになること。

なにかをすてることはわるいことではなく
ひとつの可能性に賭けることでもある。


逆に、すてることで
あたらしい可能性もみえてくる。


ありえたかもしれないじぶんを棄てる

やっと書き終えたと思ったら、

あとがきの何気ない一行に著者のすごみをみる。

やっと書き終えたと思ったら、なんのことはない、
ようやくスタートラインにつけたという思いしか残っていない。

『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一

書き終えて、はじめて問いの底の深さがみえる。

さらに考えを掘る場所をみつける。

だから、「なんのことはない」。

書き終わりが、書きはじめ。

こう言える人こそが、考える人なのだろう。

そして、書き続けられ人なのだ。


書き終わりに、書き始める。

生きていることの心細さが、むき出しになる瞬間

恐怖の底には、弱さがある。

こわさは、よわさがつくる。
・・・

岩崎俊一さんは、この「こわさ」を
「生きていることの心細さが、むき出しになる瞬間」
と言った。

じつはこの世には、自分をかばい、守るものなど何もなく、
たったひとり、柔らかい皮膚をさらしながら、
裸のまま立ちすくんでいるような心地になるのである。

『幸福をみつめるコピー』

だから人は、そのよわさゆえに
幸福という北極星をめざす、という。

幸福を求めるのではなく、
生のベクトルとして、めざす。

・・・

幸福をかんがえる人は、
日常の言いようのないこわさと
よわさをしっている人。


こわさとよわさをおもう